カテゴリ: 東日本大震災

3月11日で震災から2年ということで、東北を巡る旅をしてきました。

行程は以下の通り。
3月1日(金)
21:30出発→4時頃やまびこ館着で、仮眠。
3月2日(土)
7:00宮古市→17:00南三陸町→19:30仙台
3月3日(日)
8:00仙台→12:00新地町→14:00飯館村


長距離の行程なので主だった所だけですが、直接見て感じたことを報告します。

最初は浄土ヶ浜(宮古市)から大槌町。
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浄土ヶ浜(宮古市)
浄土ヶ浜は三陸海岸の代表的な景勝地。スライド1


奥浄土ヶ浜
海に並び立つ白い流紋岩は無事で、津波による瓦礫も完全に撤去され、とても綺麗な状態でした。ただし、岩の松の木は一部枯れているようです。
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浄土ヶ浜マリンハウス
浄土ヶ浜マリンハウスの近くの歩道は通行止めとなっており、改修工事中でした。
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蛸の浜
浄土ヶ浜へと続く歩道橋は落橋したままでした。
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宮古市鍬ヶ崎
鍬ヶ崎は宮古湾の奥まった所に位置する町。
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ほとんどの建物は撤去されたままでしたが、所々に新しい店舗ができていました。

これは鍬ヶ崎地区集会場。
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大通りでオープンしました! という看板。
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宮古市役所前
これは、宮古市役所前から撮影された津波の映像。



現在はこんな感じでした。
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山田町
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民家の多くは津波で流されていましたが、ホームセンターのホーマックやしまむら等の店舗は復旧し営業していました。
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高台にある魚賀波間神社。津波による被害は免れたようです。
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道路沿いの看板です。こういう看板はよく目にします。
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海岸から400m離れた所にある集合住宅ですが、2階まで津波が押し寄せたようです。
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山田町の中心地。いろいろな店舗がプレハブ小屋で営業していました。聞くところによると、住むことは許可されていない(高台移転が義務)が店舗はOKとのこと。


居酒屋もありました。
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そして、店舗の他に目立ったのがこの看板。200m置きにありました。この現状をなんとかしてほしいものです。
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山田町にも交流所ができていました。
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コーヒー1杯で100円。挽き立ての美味しいコーヒーでした。
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吉里吉里
とても印象に残る地名です。
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吉里吉里海岸の堤防は流されたままですが、砂浜はとてもきれいでした。
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とある石材店の石像。
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大槌町
大槌町は町庁舎を襲った津波によって町長と多くの職員が亡くなり、しばらくの間、行政機能が麻痺した町です。
これまで通過してきた宮古市、山田町、吉里吉里では、何かしら復興の兆しを感じられる建物等がありましたが、大槌町では、一転、衝撃的な光景が広がっていました。
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展望台からの大槌町の眺め。
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残された建物は数棟のみで、多くのものが無くなっていました。
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川にはJRの橋脚だけが残されていました。
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復旧しているのは電柱だけのようです。
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瓦礫の処理場だと思われます。展望台では、瓦礫処理の音がよく聞こえてました。
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平野部の一番奥、大槌北小学校に仮設店舗がありました。行政もここに移転しているようです。
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この街の現状は新聞やテレビ等でよく聞いていました。しかし、実際にここから街の姿を眺めると、本当に衝撃的すぎて言葉を失います。
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次は、釜石市、大船渡市、陸前高田市。

今回は宮城県女川町の報告です。

女川町も震度6弱を観測し、さらに三陸海岸特有の地形(V字型の海岸地形)であったため、津波による被害も尋常ではなかった町です。
仙台地図_page0001

この女川町にも昨年の8月に来ており、何枚か写真を撮っていました。今回のを含めた撮影場所は下の通りで、2011年8月に撮影したものは写真①~⑤です。
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写真①
残されたビルも壊滅です・・・。
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写真②
3階か2階建てのビルもこの有様・・・。
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写真③
地盤沈下の影響で、川の水位が地面スレスレになっていました。この辺りは地震前に比べて地盤1m沈下しています。ちなみに、女川町の先の牡鹿半島の先端は、東南東に約 5.3 m移動し、約 1.2 m沈下したようです。
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写真④
辺り一面、瓦礫の山・・・。
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写真⑤
RC造2階建てビルも津波で横転・・・。
ビルの側面や屋上は、船か何か巨大なものがぶつかった痕跡がありました。他にもこのような建物がいくつかありましたが、建築基準法改正1984年以前に建てられた建築物のうち、悪条件が重なってしまったものが転倒し流されているようです。 
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以上が、震災5ヶ月後の状況でした。
続いて、震災1年8ヶ月後の現状です。写真①~⑪が震災1年8ヶ月後、2012年11月の撮影分です。
女川2



写真①
この写真は高台から撮影しました。中央少し右に、横転したビルが残されていますが、ボロボロになったビルや瓦礫等は撤去されています。
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写真②
高台から北西方向です。こちらもビルや瓦礫も完全に撤去されていました。
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家に戻ったあと、まさかこの高台には津波が到達していないだろうと思っていろいろ調べてみました。すると、この高台は海抜16mの高さであったのにも関わらず、ここに立地する女川町地域医療センター(被災時は町立病院)にも2mほどの津波が押し寄せ、1階部分の設備が流失するなど、壊滅的な被害を受けたようです。

浸水高が約18m。
本当に信じられない津波の高さです。


写真③
S造4階建てのビルです。元の場所から15mほど流されて移動しています。ビルの背後は、写真①を撮影した高台です。
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写真④
6mの杭が1本、フーチングから垂れ下がった形で引き抜かれています。浸水高18mの津波が4階建て建物を完全にのみ込むことで、建物内に溜った空気によって大きな浮力が働き、波力に耐えられなくなったようです。
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写真⑤
杭無しの建物も転がっていました。
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写真⑥
写真⑤のビルも残されていました。転倒していなかった隣のビルは撤去されていました。
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写真⑦
この建物、そして他の2つの転倒した建物も、津波遺産として保存するようです。どうせなら、隣の転倒していなかった建物とセットで残すべきだったのではないでしょうか。P1090568

写真⑧
津波をかぶった杉の木は、おそらく塩害で立ち枯れたのでしょう。切り取られていました。津波の遡上高がよくわかります。
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写真⑨
もと女川駅があった場所だと思われます。南相馬市や新地町と比べ、着々と復興が進んでいるように感じました。
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写真⑩
瓦礫の山もだいぶ撤去されていました。あと少しです。
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写真⑪
道路計画高さとしてTP+5.4mが表示されています。
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6年後の2018年の女川町のイメージ。スローガンは~とりもどそう、笑顔あふれる女川町~とのこと。素敵な街になりそうです。
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今回は福島県の南相馬市と新地町、宮城県の女川町を見て回りましたが、少し、復興段階に地域差が生じてきているようです。

以上です。

南相馬の後、新地町釣師に行ってきました。
福島の今


ここも沿岸部に位置し、津波の被害が大きかったところです。2011年のGWと9月以来、訪ねるのは1年ぶりです。

これはGWの時の写真。「釣師」という意味深い地名なので歴史のある港町だと思いますが、津波によって全てが流されていました。
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旅館も変わり果てていました。この旅館の女将さんのブログ日記で、震災時の状況が語られています。
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海岸から500mの距離にある常磐線。線路も無残に流されていました。
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海岸から1㎞ほどの場所。辺り一面、瓦礫の山でした。
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以上が、震災1か月半後の状態でした。


続いて、震災1年8か月後の現状です。
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瓦礫が撤去された以外は、ほとんど変わっていないように見えます。2011年の9月時点と同じ風景でした。
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釣師の漁業組合のビルです。上の写真の右端に移っている建物です。
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2階はこのような状況です。
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決壊した堤防、倒れそうな電柱、大きなコンクリートブロックもそのままです。堤防背後の水たまりは、津波が堤防を越流した時に生じた洗掘地形です。常識では考えられない幅です。津波の高さを物語っています。
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釣師の中心地です。この辺りはどのように復興されていくのでしょうか。津波対策を考慮した住居・港・交通機関の復興は、非常に難しいことだと思います。今後どのように進んでいくのか、見届け続けたいです。
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釣師の北です。写真の左は橋桁が流された橋、真ん中は新地浄化センター、右は決壊した堤防です。この辺りは去年の9月に調査したところですが、その時から変わっていません。
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曙橋という名前だったようです。橋桁だけでなく橋台背面の土も流されてしまっています。
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津波にも耐えた新地町浄化センター。そして、手前の看板には「ここは国有林です。樹木を大切に!」とあります。津波ですべての樹木が流されたようです。
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釣師には、国旗が掲げられていました。
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頑張ろう日本!  頑張ろう福島!!
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次は、女川町の現状(2012.11.18)です。

福島県南相馬市に行ってきました。

南相馬市は、昨年のGW、スコップ片手に泥掃除したところです。あれから1年半、その後どうなっているのか気になったので、訪ねてみました。
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南相馬市は太平洋沿岸部に位置しています。東日本大震災では深度6強を観測し、津波によって海岸線から2kmまでの地域が壊滅しました。また、福島第一原発から近く、南相馬市南部は原発から20㎞圏内であり、未だ多くの住民が帰還出来ておりません。

今回訪ねた鹿島区は原発から30㎞しか離れていませんが、原発による避難は実施されていません。福島県放射能測定マップで調べても、空間放射能は高くないようです。
福島県放射能測定マップ

福島の今


それでは南相馬市鹿島区の現状です。


この写真は鹿島地区の沿岸部。津波の漂流物は撤去されていますが、1年半前と何も変わっていません。ショックでした。
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1年半前は、こんな感じです。
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変わったことは、携帯か何かの電波塔が建てられたことです。2


津波高さはこの樹高を超えていたとのこと。
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多くの防潮林があったようですが、残ったのはこれだけです。残されたものも塩害で立ち枯れていました。
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福島第一原発の方向です。遠くに見えるのは火力発電所。
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決壊した堤防もそのまま。
決壊部の撤去もされていません。
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海岸線から1.7kmに位置する「みちのく鹿島球場」。ここも津波に襲われました。
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2011年4月30日、多くのボランティアが泥掃除をしましたが、その当時から何も変わっていない様子。私は民家で泥掃除していたので、今回初めて訪れました。
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ここは汚染土壌仮置場の計画もあったようです。早く復興してほしいです。
震災前のみちのく鹿島球場はこちら
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バックスクリーンの時計が津波到達時間の3時40分を指したままです・・・。震災時、ここは避難場所になっており、多くの人が球場に逃げ込んだ状態で津浪が襲ってきたと聞きました。悲しいことです。
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休耕状態の田んぼです。塩害対策には3年必要だそうです。たとえ元に戻っても、放射能の実害、風評被害は深刻な影響でしょう。
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津波で壊れた建物も当時のままです。
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南相馬市の北、相馬市の松川浦です。ここの道路も途中で分断されたままでした。
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原発に近いこの南相馬では、復興の歩みが止まっているようです。被災地の現状の報道についても、最近はほとんど耳にしません。そういう自分も被災地のことを忘れがちになっていました。

もうすぐ、選挙です。被災地のこと、日本の将来のことを気にかけていきたいと思います。


次は、新地町釣師浜の現状(2012.11.18)です。

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